トップ  闘病日記はじめ

9月

10月その1 10月その2


「永眠」 2001/10/21

茶々丸が死んじゃった、、。
嘘のようだけど本当の事。、今もまだ信じられない。こうしていつも私がPCしてる間、茶々丸は後ろのソファで眠ってた。信じたくないけど現実。手を伸ばしても茶々丸はもういない、、。

20日夜、茶々丸の呼吸は前の日よりも酷い気がした。だからこの日届いた酸素ボンベ3本が月曜日まで持つのか心配だった。酸素を大きい数値で使うと1日1本持たない。
いつものように酸素ボンベの数値を大きくする。それでいつもは「ぜーぜー」が治まり眠るのにこの日は治まらない。声もいつもと違う。「あぅ、あぅ、あぅ」と小さい悲鳴のような声。熱も高く耳がキンキンに熱い。私は相方を呼んだ。
あまりの酷い苦しみ方を見て酸素の数値を最大にして様子をみる。それでも茶々丸の苦しみは治まらない。相方はついに「あの薬を使おう」と言う。私は一瞬考え「うん」と泣きながら答えた。

薬を飲ませばもう起きない。それは、永眠、安楽死を意味する。
「これで茶々丸がゆっくり眠れるなら、、楽になれるのなら、眠ったらもう起きなくて良い」そう思ってた。相方も「ゆっくり眠らせてあげよう。こんなに苦しんでる」と。
もう茶々丸は十分過ぎるほど苦しんだ。20歳の高齢、肺ガン末期でもう助からない。これ以上酸素で誤魔化すのは無理な段階と判断した。

苦しむ茶々丸を私が抱いて相方が薬を飲ませた。最後の抵抗で茶々丸は相方の指に血が出るほど噛みつく。
薬は人間用で「睡眠鎮静剤・抗不安剤」効能は不眠症、麻酔前投与、てんかん、焦点性痙攣発作、精神運動発作用のもの。薬をもらった医者からは、「飲ませれば起きない可能性があります」と言われたモノ。
当然この小さな弱った命に与えればもう目覚めることは無いと思った。
15分もしないうちに、金魚のように大きく口を開け喘ぐことはしなくなり、お腹の動きも変わってきた。
薬の効果が出てきたと思い、酸素の数値を下げた。茶々丸にはこの数値では足りないはず。全て覚悟の上のこと。
熟睡してるかのように眠り続ける茶々丸。
今まで苦しくて横になることすら出来なかったので、静かに横に寝かせた。5時間もしないうちに茶々丸の呼吸に変化が起き、酸素マスクを外す。数分もたたないうちにお腹の動きも止まってしまった。

わかってた事だけど驚いた私は「茶々、茶々!」と呼び抱っこした。そして不思議なことに、しっぽがボワッと大きく威嚇した時のように毛が逆立ち膨らんでいた。撫でて細くしてもまた膨らむ、。
まだ身体は温かく柔らかい。涙が止まらず相方と茶々丸を交互に抱っこして泣いた。相方も声をあげて泣いていた。私もいっぱい泣いた、、。静かな寝顔だった。昏睡したまま永眠してしまった。
茶々丸が死んじゃった、、本当に本当に死んでしまった。抱っこしてるうちに早くも身体が固くなり始めたことが、よけい哀しかった。
どう考えても絶対に嫌だ。茶々丸が死んでしまうなんて、、。アタマではわかっていたけど実際にその時が来るのは想像をはるかに超えていた。
過去に友達のわんこやにゃんこが亡くなった時、可哀想と思えてもその哀しみを本当に理解することは不可能だったが、今は理解出来る。
体験した人でないとこの哀しみを本当に理解することは難しいと思う。薬を飲ませばもう起きないこと、それがこんなに苦しいものとは、、。
去年私の父親が膵臓ガンで亡くなった時よりも辛い、、。これから先、いつか母親や相方が死んでもここまでは哀しむことは無い。

二人で茶々丸の身体をずっと交互に抱いていた。匂いを嗅いだら茶々丸の匂いがした。
そのまま二人で茶々丸を撫でながら数時間泣いていた。そして相方が茶々丸を抱っこして家の中茶々丸の好きだった所へ連れて見せる。リビングの窓からお外見。2階の寝室サイドのベランダ。ロフト部屋。PC部屋のベランダ、、茶々丸が好きで日向ぼっこした所。
相方が茶々丸のお腹を撫でてたとき、「うぅ」と声が出た。それはお腹を押すと空気が漏れるような茶々丸の苦しんでた時の声だった。こんな声でももう聞くことも出来ない。大好きだった茶々丸、私の子、、。
最後の最後まで苦しんだ茶々丸、あのまま薬を使用しなかったらもっと苦しんだはず。
私たちが出来る唯一の方法は、酸素をたっぷり与えること。でもそれをしても茶々丸の苦しみは治まらない。
もう見ていられなかった。楽にしてあげたかった。むしろもっと早く使えば良かったかもしれない。けれど安楽死には勇気が必要だった。その為長い間茶々丸を苦しませる結果に、、。ずっと苦しみ身体を伸ばすことも許されず、トイレまで行きたいのに身体が動かない。意識があるだけ可哀想だった。

21日早朝、茶々丸は20歳で死んでしまった。
8月終わりごろから元気がなく、明らかに体調悪くなってからは1ヶ月くらい。
柔らかく温かい身体は冷たく冷たくなってしまった。あんなに熱かった耳も冷たい。痩せてガリガリ、骨でナデナデしても痛いくらいの身体。父の時よりも「死」というものを強く感じた。
私が茶々丸を撫でてる間、相方は茶々丸のお尻をキレイにしてた。そして自分で買ってきた紙おむつを交換してた。哀しいけど、おしっこは出てくるから、、。
身体は冷たくなってしまったけど、肉球を押すと爪がニュッと出てくる。長いしっぽだけは何故か、固くならずに軽くなりフワフワだった。
目は熟睡した時、グリグリ動いた時のように開けていた。肉球をいつものように私の頬に当てると、とても冷たくまた涙が出てきた。しっぽの先の黒い毛、胸の白い毛、前足の白い毛を少し切り形見とする。ヒゲはよく落ちていて保存してたのが沢山ある。
それでも信じられない。20年の月日は私に相方に生活の一部として染みこんでいたから。


「火葬」 2001/10/22

泣きながらNET検索で火葬場を探した。昨日は1日ずっと茶々丸の側にいた。
二人で茶々丸にお別れを言う。相方が「茶々、これからはママを守ってくれよ、、」と、、。私はもう泣くしかできなかった。
ノロノロと火葬場に行く準備をしていた私は「なぜ、私はこんな事をしなくちゃいけないんだろう、、」と思っていた。
ケニア時代、茶々丸が赤ちゃんの時から使ってたカゴに毛布をひく。この毛布も20年使用してるボロボロのモノ。
高齢になってからは使わなくなったけど、ねこじゃらし、ビニール袋のオモチャなどを入れる。
マグロ、ササミの缶詰と便秘対策に病院用のフード。カリカリ、大好きなチーズ、のり、かつおぶし、マグロのお刺身、食欲が無くなっても好きだったコーヒー用ミルクを入れる。混乱して好きだったモノが思い出せない。
「病院食を入れたから便秘は大丈夫だよね、茶々丸」そう思った。

私が直接、火葬炉のレンガの上にカゴごと茶々丸を置いた。
火葬後、茶々丸は小さな骨となってしまった。でもアゴに付いた犬歯その他の歯、爪、しっぽの骨、指の骨、肩胛骨も無事あった。腕の骨はとてもしっかりしてた。あの骨で歩いてたのかと想うと涙が止まらない。そしてうんこまで残ってた。しっぽの骨を二つお守りとして別に保存した。アタマもしっかり残ってて丈夫な身体だったと実感。
とても賢い子でツーカーの仲だった私と茶々丸。
まだ苦しんでた時、私たちが今後を話してた内容。それはこれから宴会シーズンで私も年老いた母親の店を手伝いに行かなければならない。けれど茶々丸を一人には出来ず悩んでいた。そして取りあえず今週は休むことに、、それを聞いてたのだろうか。まさかこんなに早く逝ってしまうとは、、。きっと私たちに迷惑かけないように、
そして「もう苦しいのは嫌だよぅ、、」と、茶々丸が言ってる気がした。
今、自宅に茶々丸を連れて帰り一緒にいます。酸素ボンベの回収が来た時相方はまた泣いていた。

きっと、今の哀しみとこれから先の哀しみは少し違うと想う。それは茶々丸が日々の生活、いるのが当たり前の20年となっていたのでいない寂しさはこれからなのだと想う、、。もうあの柔らかい身体を撫でることが出来ない。あの声を聞くことも出来ない。抱っこも出来ない。私たちの子供はいなくなってしまった、、。部屋中に茶々丸の想いが匂いが残ってるのに、、。
最後にこの場を借りて心配してくれた方達、貴重なアドバイスをくれた方たち、どうもありがとうございました。
文字にすると、とても冷静に書いてると思う方もいるかと思いますが文字、文章だけでは表現出来ない想いもあるのです。今は茶々丸闘病日記の終了の使命感で書いています。

茶々丸、ありがとう。これからも一緒だよ。そして苦しい想いをさせてごめんね、、。
ママはこれから先もずっと茶々丸のママだよ、、、


トップページ 

闘病日記初めに戻る
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送